海で命をつなぐ服。
118番を、
知っていますか?
最新の調査※によると、
118番について「知っている」と答えた人は全体の40.5%でしたが、
その中で実際に正しく用途を答えられた人は22.1%にとどまりました。
また、20代においては16.5%とさらに低く、
118番の認知は十分に広がっていないのが現状です。
POPUP STORE
2024.9.6(金) – 11.4(月)
対象店舗にて受注販売開始
- THE NORTH FACE+ サッポロファクトリー
- THE NORTH FACE+ エスパル仙台東館
- HELLY HANSEN コクーンシティ コクーン2
- HELLY HANSEN ららぽーと富士見
- HELLY HANSEN 原宿
- HELLY HANSEN ららぽーと横浜
- HELLY HANSEN MARK IS みなとみらい
- THE NORTH FACE / HELLY HANSEN 鎌倉
- HELLY HANSEN OCEAN 葉山マリーナ
- THE NORTH FACE / HELLY HANSEN テラスモール湘南
- THE NORTH FACE+ 名古屋ラシック
- THE NORTH FACE / HELLY HANSEN 藤井大丸
- THE NORTH FACE+ グランフロント大阪
- THE NORTH FACE / HELLY HANSEN 神戸
- THE NORTH FACE+ キャナルシティ博多
- THE NORTH FACE / HELLY HANSEN 沖縄浦添PARCO CITY
118 OCEAN FREY JACKET - black
37,400円(税込)
あらゆるマリンアクティビティで活躍する防水ジャケット。118と波をモチーフにしたロゴと、海で安全に遊ぶためのメッセージをデザインに取り入れました。オリジナルプリント部分は、夜間の光に反射する加工を施しています。
118 OCEAN FREY JACKET - ivory
37,400円(税込)
あらゆるマリンアクティビティで活躍する防水ジャケット。118と波をモチーフにしたロゴと、海で安全に遊ぶためのメッセージをデザインに取り入れました。
118 WAVE LONG SLEEVE TEE
8,800円(税込)
アウトドアアクティビティに活躍する長袖Tシャツ。海上でつながる電波の周波数帯を表したグラフのデザイン。オールシーズン活躍します。
118 BIG LOGO FULL-ZIP HOODIE
15,400円(税込)
海への環境配慮型素材を採用したフルジップパーカー。118の数字をメインに大きくプリントした周りの人の目をひくデザインです。
*掲載画像と実際の商品の仕様が若干異なります。
118 RUSLE LIGHT TOTE
6,600円(税込)
防水性のある生地で、雨の日でも気軽に使えるアイテム。オリジナルプリント部分は、夜間の光に反射する加工を施しており、いつでもどこでも持ち歩けます。
【注意事項】
※トートバックを除く4アイテムは受注生産となります。トートバックは店舗にて通常販売いたします。※当カプセルコレクションを受注いただいたお客さまには、オーダーシートに必要事項を記載いただきお控えをお渡しいたします。
※HELLY HANSEN公式オンラインストア(Goldwin Online Store)での受注受付ならびに販売は行っておりません。
【商品に対するお問い合わせ】
株式会社ゴールドウイン カスタマーサービスセンターGOLDWIN INC. CUSTOMER SERVICE CENTER
TEL: 0120-307-560
SPECIAL INTERVIEW
漁師
古坂 彰彦 さん
ライフガード
奥野 結実 さん
セーリング競技
鈴木 義弘 選手
SPECIAL
INTERVIEW
海と生きる人たち
ライフガード 奥野結実 さん
海難事故を防ぐためにビーチを守るライフガード。日本においてその活動は、非営利団体であるライフセービングクラブの面々によって営まれている。そして、日本最大の集客数を誇り、国内ライフセービング文化発祥の地でもある神奈川県藤沢市の湘南片瀬西浜海岸にある「西浜サーフライフセービングクラブ」は、日本で最も伝統のあるライフセービング団体だ。西浜サーフライフセービングクラブと、ライフセービングスポーツを中心に取り組む大学のクラブにも所属する、慶應義塾大学3年生の奥野結実さんにライフセービングの持つ魅力について話を聞いた。
─ 奥野さんがライフガードを始めたきっかけを教えてください。
大学に入ったら新しいことを始めたいと思っていて、慶應にライフセービングサークルというスポーツの方のライフセービングのクラブがあったんです。そこで初めてライフセービングスポーツっていうのがあることも知って。海で活動できるというのも魅力的で、やってみたいなと思って始めました。
─ 海に興味もあったんですか?
海に憧れはありました。地元は川崎なんですけど、中高生の頃に海に来たりしたことも全くなくて。ライフセービングがきっかけで、ほぼ初めてくらいに海に行きました(笑) 中高時代はスポーツもやっていなかったんですけど、小学校のときに少しだけ習い事で水泳をやっていたので、唯一できるスポーツが水泳で。水とか泳ぐことに関連したもので何かないかなって考えていたときに、ライフセービングを見つけたんです。
─ では、本当に初心者の状態からスタートされたんですね。
そうですね。今で3年目ですね。でも、ライフセービングスポーツはほとんどの人が大学から始めるんです。大学のサークルとか部活で知って、ライフセービングを始めるって人がほとんどなので、スタート地点はみんなだいたい一緒なんです。特に、私のやっているマリブボードのボードレースやサーフスキーという競技は、大学から始める人ばかりです。
─ 奥野さんは大学でスポーツとしてのライフセービング競技もやりながら、西浜ライフセービングクラブに所属し、ライフガードとしても活動されている訳ですよね。比重的にはどのような感じなんですか?
海水浴場が開いている7、8月の2ヶ月間がライフガードとして浜に立っている期間で、それ以外はオフシーズンなんですけど、ガードの為に週に1回練習をしたりだとか、チームビルディングの為の勉強会とか、ビーチクリーンとかをいつもみんなでやっています。あと、ガードの直前、5月とか6月になるとタワーを建てたり、部署の中に荷物を入れたりっていうガードの準備もあって。でも個人的にはオフシーズンもほぼ毎日のように海に来て練習しています。あとはプールに行って練習したり。普段は朝練習して、そのまま学校に行ったりバイトに行ったりという感じですね。
─ それは学業との両立が大変そうですね…
そうですね。結構大変で、朝に海で練習をしてから、そのまま学校に行って、その後バイトをしたり。次の日もまた朝から練習してっていうのを繰り返しているので、すごく大変ではあるんですけど、やっぱり、他のスポーツとは違って、自然が相手のスポーツなので、毎日海に来たらいつも違うコンディションの中で練習できます。それに、夏のガード期間に向けてのトレーニングということで、目的があるので頑張れていると思います。
─ チームビルディングとおっしゃられていましたけど、ライフガードというものは個人ではなく、チームで取り組むものなんですね。
そうですね。一人じゃ絶対にこの広い浜を見切れないし、何かあった時にも一人じゃ対応できないので、みんなでいかに協力して活動するかっていうチームビルディングはすごく大事になってきます。
─ 元々海にほとんど来たことがなかったということですが、ライフセービングを始めて、海についてのイメージは変わったりしましたか?
海からは自然の偉大さっていうのをすごく学びました。波が上がったりすると、本当に海で死にそうになったり(笑) 海で行われる大会とかイベントとか、みんなで練習の後に海に遊びに行ったり。自然の怖さも知ったし、海が与えてくれる楽しさも同時に知れました。
─ 自然の怖さを知ったからこそ、忙しい中でも、日々海に足を運んでいるのでしょうか?
そうですね。海に本当に入ったことのない、それこそ一般の海水浴客と同じような状態でスタートして、ライフガードとして、みんなに海の楽しさを教え、みんなが安全に遊べるようにサポートするには、自分が一番海に入って、海の楽しさも怖さも知ったりしないといけないなと思っているので、私はなるべくオフシーズンでも海に来て、波乗りをしたり、日々練習をしたりしています。だからこそ、海の楽しさも怖さもある程度分かるようになってきたと思います。
─ なるほど。日々忙しい中で、ライフセービングにそこまで打ち込めるモチベーションは何なのでしょうか?
私はライフセービングスポーツ、競技が好きなので、それが楽しいんですよね。練習も勿論大変ですし、辛いんですけど、海の環境を楽しめるし、いろいろな世代の方達と出会えるし、みんなで一緒に何かをやり遂げた時には喜びもあります。辛いだけじゃないっていうのが、ライフセービングスポーツの魅力かなって。
─ 大学を卒業しても続けたいと思いますか?
そうですね。ライフセービングとの関わり方はやっぱり変わると思うんですけど、海で出来た友達とか、一緒に練習してくれる方達とか、海という自然そのものが、すごく私にとって魅力的なので、競技は引退したとしても、ビーチクリーンなどライフセービングというスポーツだけではない活動を、細く長く続けて行きたいなと思っています。
SPECIAL
INTERVIEW
海と生きる人たち
セーリング競技 鈴木義弘 選手
セーリングのILCA7 クラス(一人乗り)の選手として、ヘリーハンセンとサプライヤー契約を結んでいる鈴木義弘選手。鈴木選手はユースの頃から優秀な成績を収め、18年の高校総体(インターハイ)優勝、ILCA7全日本選手権を18年と20年の二度優勝、19年にはILCA7 U-21 世界選手権で4位、23年には杭州アジア大会 ILCA7クラス日本代表となり、同じく23年に国民体育大会7連覇と、輝かしいばかりのキャリア。日々練習に励む鈴木選手に、先の2020東京オリンピックの際にもセーリング競技の会場となった、江の島ヨットハーバーで話を聞いた。
─ まずは、鈴木選手がセーリングを始めたきっかけから伺えますか?
きっかけは父親ですね。父親が大学時代にヨット部に入っていたみたいで、そこから父親の趣味はヨットだったんです。その影響で、二つ上の兄が小学校一年生のときに、地元のヨットクラブに入って。ヨットは小学校生以上からじゃないと乗れないっていうレギュレーションがあったので、僕はずっと見学してたんです。毎週。それで、僕も小学校に入学したタイミングで正式に始めて、今に至ります。
─ 地元にヨットクラブがある環境だったんですね。
山口の光市っていうところが地元なんですけど、瀬戸内海がすごく近くて。山と海に囲まれた田舎ですね。海はめちゃくちゃ身近にありました。この江ノ島のヨットハーバーだったら海の交通量もあまりないですけど、瀬戸内海はちゃんと大事な水道なんで、そういった意味でも身近でしたね。
─ セーリングを始めてからは現在までずっと続けていらっしゃるんですか?
楽しかったか楽しくなかったかは別として、一応ずっとやってきましたね。実は、小学校4年生くらいまではあまりセーリングを楽しめてなかったんです(笑) 友達は週末サッカークラブに行って、その後みんなでゲームをしたりっていう感じだったので、そういうのが羨ましかったりもして。でも、4年生のときにJOCジュニアオリンピックカップっていう大会で優勝したんですね。子供だから皆からおめでとうって言われるのが、嬉しくて嬉しくてたまらなくて。それで、練習がとかじゃなくて、ヨットレースが好きになりました。もっと戦ってみたいなって。
─ 気持ちが大きく切り替わったと。
そうですね。練習はしたくないけど、大会には出たいみたいな(笑) 海外遠征とかにも行くようになって。でも、その頃はヨットがなんで進んでるのかも考えたこともなかったし、考えても意味ないって思ってて。本当に感覚だけでずっとやってました。それこそ優勝した4年生のときも、なんかよくわからないけど、早いなっていうような状況で。
─ 天賦の才があったとしか思えないです。
いやー、どうなんですかね。でも、負けず嫌いなんで、無意識だけど集中してたところがあるのかもしれないですね。
─ そうやって海外遠征とかにまで行くようになっていたとなると、将来はセーリングの選手として活躍したいと考えていたりもしましたか?
さっき、何も考えずにヨットをやっていたと言いましたが、何も考えないでいける限界ってのがあったんです。高校1年生のときの世界選手権が290人中180位くらいで。もうボロボロに打ちのめされて、ヨットやめようと思ってたんですよ、正直。これやっても意味ないなって思っちゃって。国内でいくら勝っても、世界選手権で勝てないのはつまらないじゃないですか。でも、高校にはヨットの推薦で入学していたので、卒業するまでもう一度ちゃんと本気でやってみようと思い直して。通ってた光高校ってところは、ヨットハーバーまでチャリで5分とかそういう立地だったんで、週6練習があったんですよ。自分はあまり長時間集中できるタイプじゃなかったので、1日1つだけでいいから、何か達成できる目標を掲げようと。それを自分なりに1年間続けていった結果、次の2017年の世界選手権では、280人中6位になれたんですよ。僕もびっくりしたし、いろんな人がびっくりしてました。
─ わずか1年でそこまでの成果が現れたんですね!
そうなんです。ヨーロッパでの世界選手権だったんですけど、10位以内に入ると全員表彰されるんですよ。もう、優勝したんじゃないかっていうくらい拍手も凄くて。これを経験しちゃうと、もうやめれないなって(笑) またこの喜びを味わいたいし、もしオリンピックに出たらもっと沢山の人たちが喜んでくれるだろうし、自分自身も本当に嬉しいだろうなって思って。そこからオリンピックにチャレンジすることに決めました。
─ 鈴木選手の取り組まれている、ILCA7 クラスというのは一人乗りですよね? やはり一人乗りの方が競技人口が多いんですか?
セーリングという競技において言えば、一人乗りのILCA7 クラスというのは世界的にスタンダードなものだと思いますが、日本においては二人乗りの方がポピュラーかもしれないです。大学のヨット部におけるセーリングは全部二人乗りなんで。一人乗りをやっているとなると、ユースのどこにも所属してない子供たちが多いですね。
─ なるほど。そもそも、一般的にはどういうところで皆さん練習されることが多いんですか?
今の日本のセーリング界で言うと、やっぱ高校ヨット部と大学ヨット部が中心ですね。それが多分日本の競技人口の半分以上を占めてます。僕も大学は早稲田のスポーツ科学部だったんですけど、ヨットの練習はこの江の島でやってました。
─ 東京の大学だとキャンパスからのアクセスが大変ですね…
そうですね。でも、僕は自分のクラスだと、ヨットの練習ももちろん大事なんですけど、フィジカルのトレーニングがそれ以上に重要だと思ってて。自分のフィジカルだと、大人の世界では通用しないところも多くて。ちょっと前まで伸び悩んでたんですよ。でも、これまでと同じことをやっていても状況は変わらないなと思い、フィジカルでは負けないように、フィジカル中心にトレーニングするようにしていたので、こっちにいつも来ているわけじゃないんです。そうやって練習内容を切り替えたことで、久しぶりにまたちょっと早くなったという感覚を練習中にも感じることが出来ていて、メンタル的にも安定してるし、やってやるぜって気持ちなんです。
─ 当たり前ですが、セーリングもトレーニングは陸で行いますもんね。では、これまで長年ヨットをやられてきた中で海上でのトラブルに遭ったことはありますか?
やっぱり、どんなに気をつけていても自然が相手だし、レースの運営は人間だし、トラブルは生じてしまうんです。一番怖かったのは雷ですね。小学生の頃のレースなんですが、サンダーストームがもう来てるのに、レースをしちゃって。本当は絶対駄目なんですけど、運営も間違った選択をしちゃうときがあって。スタートしますってなったときには、もうバカバカ雷が海に落ちていたのにやっちゃって。雨雲がバーってきて、ホワイトアウトしちゃって。みんなGPSも持っていないから、どこに帰ればいいかもわからないけど、みんなでとりあえずまとまっていたら、今度はマストが金属製なんで、そこにバーンと落雷するような状況で。140人が全員ほぼ泣いてましたね。そのときは本当に怖かったです。
─ 想像するだけで怖いですね… 海の危険さは身をもって実感されてきているんですね。
実際、海では人が亡くなってしまうこともあるので、海は舐めちゃいけないんです。選手によっては、長時間海に出るのに適していないようなウェアを着ていないこともありますし。それこそ、今お世話になっているヘリーハンセンのウェットスーツは、機能性と耐久性も抜群に良いんですが、何よりも着心地が最高です。長時間着用していてもストレスがなくて。2019年にオリンピッククラスの全日本選手権で優勝してから、ヘリーハンセンが正式にサプライヤー契約を結んでくれたんですが、子供の頃から憧れていたのでとても嬉しかったです。
セーリング競技は生涯スポーツと世界でも位置づけられています。競技も可能な限り続けていきたいですし、新たなセーリングや海の楽しさを見つけていきたいですね。僕の経験を活かして、全国の若いセーラーたちへ貢献できるような活動もしていきたいです。
SPECIAL
INTERVIEW
海と生きる人たち
漁師 古坂彰彦 さん
1877年にノルウェーの港町モスで、船乗りたちのために作られた防水ウェアから、ヘリーハンセンはスタートした。その後大きな進化を遂げ、現在では様々なフィールドの人々にとって、快適で高機能なアウトドアウエアを製造し、販売している。そして、現在でも船乗りや漁師との関係性は深い。北海道の知床半島、斜里町ウトロ漁港。世界自然遺産にも認定されたこの町で、50年近く海に出ている漁師、古坂彰彦さんは、ヘリーハンセンと知床の漁師を結びつける人物。港のすぐそばにオープンした、古坂さんが自ら料理の腕をふるう魚料理店「OYAJI」にて、古坂さんから話を聞いた。
─ 古坂さんとヘリーハンセンの関係はどのように始まったんですか?
ヘリーハンセンの人たちが、漁師と一緒に何か取り組みたいってことで、ウトロ漁港に、漁のときに着れるウェアを見せに来てくれたの。それで、うちが真っ先に買うって手を挙げて。そっから始まったんだね。それ以来何かあると相談してもらって。うちの会社のみんなの分を揃えたんだけど、みんな作業のときには勿体ないって言って、なかなか着ようとしないんだ(笑) でも着てると、周りの漁師からも「そのウエア良いな。」って言われる。それに、かっこいいだけじゃなくて快適なんだ。
─ 古坂さんが漁師になられたきっかけは?
俺は生まれも育ちも斜里町なんだ。産まれたのもこっから50mくらいのとこ。家で生まれたの。吹雪の日で、漁師だった親父が産婆さんをおんぶしてきたんだって。12月9日だった。こないだで65歳だから、高齢者。嫌な響きだね(笑) 漁師は元々好きじゃなくて、高校生の頃は調理師になろうかなって思ってたんだけど、2人いる兄貴が両方とも漁師を継がないっていうから、俺がやることにしたんだ。漁師は好きじゃなかったけど、海が大好きだったし、親父のことも好きだったから。
─ 漁師にあまり良いイメージがなかったんですか?
その頃の漁師の仲間は本当に粗っぽくて、呑んだくれてるようなやつも多かったんだ(笑) 今よりも景気も良かったし、みんな俺は漁師だぞ! って感じで呑むんだよ。そういうのが嫌いだった(笑) だから、あいつは変わってるとか言われてたね。それからもう何十年も経ってるけど、今でも異質なのかもしれない。
─ 昔ながらの漁師さんのイメージというと、確かに漁終わりには皆で酒を呑むというようなイメージがありますね(笑) 1年間で漁に出れる時期というのは決まっているんですか?
今の漁師はあまり呑まなくなったよ。漁は毎年4月から始まって11月末には終わる。春や夏は、あまりお金にはならないんだけど、時知らずとか、マス、ホッケだとか、色んな魚が入ってくるから、俺的には面白いかな。秋は鮭で、鮭が9割。鮭がメインだね。斜里町は日本で一番鮭が獲れる町なの。17年連続で一位だったんだけど、18年目で落ちちゃって。でも、最近また一位に復活してる。鮭を獲るのは定置網で免許制だから9月7日から11月下旬までって決まってるの。そこが勝負。その中でもよく獲れるのが10月の上旬から中旬ぐらいで、ドーンと。だからと言って、別に特別忙しくはないけどね。朝5時に漁に行って荷揚げして、8時、9時には終わっちゃうから。
─ それくらい鮭が圧倒的なんですね。
そう。で、いろんな漁のやり方があるけど、ここでは鮭を獲るには定置網で許可が必要、だから、場所も決められているんだ。
─ 網を変えるのにコストがかかるということですか?
めちゃくちゃかかる(笑) 網を全部変えたら数億はかかる。
─ え?! 網だけでですか?
ロープ一本でも、普通のじゃないから数万円するんです。時化(しけ)もあるし、潮の流れも早いから強度がないといけないの。そういうロープを何百も使ってるしね。クレーンが無ければ網修理はできない、全部新規で、定置網をやりましょうってなったら、数億円かかるよ。
─ なかなか新規参入が難しそうですね… このあたりで漁をされてる方は、だいたい地元の方が多いんですか?
大体がそうだね。でも、俺みたいにこの辺りの自然が特別好きってやつはあんまりいないかもね、俺は好きなんだよね、みんなは知床の自然と一体化してるんだろうね(笑) 船に乗ってもう50年近いんだけど、知床の風景が未だにすごい好きで。四季もあって飽きない。毎日のように船に乗って、写真を撮って。今は携帯でやってるんだけど、以前は一眼レフカメラで撮ってて。みんなは俺が写真撮ってるのを笑ってるけどね、また始まったって(笑) きれいじゃねーかって言い返してるんだけどね(笑)
─ オホーツク海は流氷もありますし、他の海とも全然変わってくると思うんですけど、古坂さんにとってのオホーツク海の魅力はなんですか?
知床半島。だから、この景色見てたら、どこ行っても全然つまんない。ダイビングも好きで、海外旅行のついでに色々なとこで潜ったけど、流氷を潜っちゃったら、他の場所はつまらなく感じちゃうんだよ。今はそんなに大きな流氷がないから無理だけど、流氷の下にある流氷の洞窟を潜ったことがあって。凄い綺麗なんだよね。空から光が入ってきて。他の場所でダイビングをしても、地形って変わらないじゃないですか。でも、流氷は同じもの2度とないですからね。知床の自然からはパワーをもらえるんだ。雪景色だったのが、春になってだんだん緑になってきて、次第にもっと濃い緑になって。紅葉し出したと思ったら、一番高い羅臼岳の頂上からだんだんと雪が積もってきて。そのうち、もう今年も終わりだなって思うんだ。こんなに面白いことはないよ。
─ おっしゃる通り、知床の豊かな自然は観光の側面からも常に注目を浴びていますよね。そんななか、22年には観光船の沈没事故が起きてしまいました。とても痛ましい事故であり、改めて自然の持つ“怖さ”を考えさせられました。古坂さん自身もそういった危険な状況に遭遇したことはありますか?
まぁありますよね。一度潜水で死にそうにもなってるし。一人で60m近くバンバン潜ってたら、上がれなくなって。でも、特に焦りもせず、あー、ついにやっちゃったな、終わったなみたいな感じで意識が遠のいていくんだけど、娘たちの花嫁姿を見なくて良いのか!? って思う自分がいた、気がついたら船に戻ってた。長年やってきたことだから、無意識に体が動いたんだろうな。船からも何回か落ちたしね(笑)
─ 古坂さんの経験があるからこそ、九死に一生を得たんですね。
経験がないと対処できなったかもね。俺は救助にも何度も行ってるし、船が沈む時っていうのも想像つく。あの観光船が沈んだのも、ハッチの蓋が壊れていたのが原因と言ってるけど、問題はあの日に出たのが間違い。漁師はみんなその日、漁に出るのをやめたんだよ。2日ぐらい前から天気図見て、この日は吹いてくるからやめるべって話してて。一度は海に出た漁師船もあったけど、7時半ぐらいに帰ってきてたし。出た時は確かにそんなに波がなかったんだけど、昼過ぎに前線が抜けたらバーって風が来て時化らと分かってたから、漁師も船長を止めてたんだよ。行かない方がいいですよって。それでも行っちゃった。要は出たのが間違い。定置船は時化には強いけど、うちでも無理だったと思った!
─ 船長の判断で行ってしまったんですね。
そう、船での船長の責任は重い! 俺もずっと船長をやってたんだけど、今は20代のやつに交代してる。それは、俺が歳をとって辞めたあとだと、次の船長に付いていってやれないじゃん。やる気あるか? って聞いたら、あると。お前が全部責任持つんだよ、覚悟しないと駄目だよって伝えて、覚悟ができる、ということで、交代した。もう立派なもんだよ。ただ、まだ大きい時化を経験できてないんだよね。今はちょっと時化てたりすると漁に出ないんだけど、自分たちの時代は大きな時化でも行ってたから、その辺の経験がないから、対処ができないかなと。それは経験がもの言うね、今はホントに時化たら無理しなくなった。
─ 今の時代、海が時化たら漁に出なくなったっていうのはや安全性を考慮してということですか?
安全が第一だね、だから無理して出なくなった。昔は船も小さかったし、こんなに良い船じゃなかったんだ。一度に獲れる量も少なかったし、船もちいさかったから、時化たりすると潜水艦に乗ってるみたいで恐怖だった。でも、そういう経験があるから、ここまでは大丈夫とか判断できる。だから何事もやっぱり経験を積まないと。いざという時にね。何もない時は誰でもできるけど。何かあったときにその差が出る。漁師にとって、命に関わることだから、厳しいことも教えていかないといけないんだ。だから、俺がいるうちに若い世代に色々なことを教えていきたいと思ってるんだ。
海の事故にあわないために
大人でもライフジャケットを
身につけよう。
海に行く前に、
天気予報を確認しよう。
できるだけ、
2人以上で行動しよう。
周りの人に、いつどこにいるか
こまめに連絡しよう。
海で携帯電話が
つながる仕組み
ドコモでは、沿岸の基地局から海へ電波を発射することで、
海上でつながるエリアを広げています。
118に発信すると、
海上保安庁に位置情報が共有されるため、
一刻も早い救助につなげることが可能です。
沿岸基地局